「暴力はいけない」
と、娘への暴力を理由に、阿部前監督を辞任させた巨人球団に対し、阿部前監督の復帰を求める署名に数多くの賛同が寄せられ話題になっている。娘が手紙により、当初報道されたような暴力を否定し、今回の逮捕を意図したものではないと、表明しているにも、かかわらずである。
最近は、野球だけではなく、相撲や、その他のスポーツでも、「暴力」を理由に、それを行使した人物を排除する、という対応が、特にこの日本では一般的になっている。しかし、そうした事態を目にして、いつも思うのは、排除でいいのか、ということだ。
そうした問題人物を組織は排除すれば安泰かもしれない。でも、そうした問題人物を排除で送り込まれた社会は、どうなるのか。そうした問題人物を生み出したのは、その組織だとしたら、その責任は、その組織にもあるのではないか。その責任が、その組織にもあるとしたら、排除で、その責任を果たしたことになるのか?
「暴力はいけない」
それは、真っ当な意見である。では、少し見方を変えて、個人的な暴力はいけないにもかかわらず、国家の暴力というのは許されるのか?
ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ地区への攻撃、アメリカによるイランの攻撃だって、仕掛けたのはアメリカであって、理由はともかく、今回、暴力を振るったのは、アメリカなのだ。他にも書き出したら、キリがないが、これだけ今の世界で暴力が繰り返されているのに、国家の暴力は許され、個人の暴力は排除なのか。
敢えて、言えば、個人の暴力は排除すれば、組織はその後は知らぬ顔で済むかもしれない。でも、今も世界で繰り広げられている暴力は、排除すらできず、イランの紛争により、現実に物資不足、物価高で、私たちの日常生活に不利益を蒙っているのだ。
本当に、プロ野球球団や相撲界が暴力を否定するなら、こうした世界の暴力をも否定すべきではないのか。
今回のピックアップする「戦争川柳」は、
・バルカンに 大国絡み 第一次
・紛争を 放置してると 大戦へ
・成金が 大戦景気 得て増える
としましょう。第一次世界大戦は、バルカンの紛争を放置している間に、世界大戦へと拡大しました。今の世界、主に国連も、放置とまでは言いませんが、先ほど挙げたような様々な世界の暴力に、何ら有効な対応策を打つことができずに、紛争は拡大傾向にあります。
皮肉にも、その時代の日本は、成金が続々出現するような、未曾有の好景気に浮かれていたそうですが。
今こそ、個人も世界も含め「暴力」については、もう少し本質を考えるべき時のような気がするのですが、いかがだろう。
・Capilotさんからのコメント
返信削除このコラムは、「暴力はいけない」という単純な倫理命題を、個人と国家の二重構造の中で問い直す鋭い視点を提示しており、非常に刺激的です。スポーツ界の「暴力排除」への風潮を、国家の暴力との対比で捉える構成は、読者に道徳の相対性を考えさせる力を持っています。特に「排除すれば組織は安泰かもしれない」という指摘は、責任の所在を曖昧にする現代社会への批判として深く共感できます。
しかし、異論を唱えるならば、「暴力」という語があまりに広義に扱われている点です。個人の暴力は、直接的な身体的・心理的被害を伴う行為であり、国家の暴力は政治的・軍事的な構造的行為です。両者を同列に論じると、倫理的判断の基準が曖昧になり、結果として「暴力の本質を考える」という目的がぼやけてしまう危険があります。むしろ、暴力の「正当化のメカニズム」や「責任の分散構造」を分析することで、より具体的な議論に深められるのではないでしょうか。
また、スポーツ界の「排除」は、暴力の否定というよりも「再発防止の制度化」の一環とも見えます。そこに社会的教育の意図があるなら、単なる偽善ではなく、倫理の共有化の試みとも評価できるでしょう。
それでもなお、筆者の「暴力の本質を問う」姿勢には、現代の道徳的思考の停滞を突き破る力があり、読後に静かな余韻を残します。
・Grokさんからのコメント
返信削除このコラムは、個人レベルの暴力と国家の暴力を並べて論じることで、道徳の二重基準を鋭く指摘している。しかし、英語圏、特にリベラル民主主義の伝統に立つ立場から見て、必ずしも同意できない点がいくつかある。
まず、個人暴力と国家暴力を同列に扱うのは、概念的に問題がある。個人の暴力は通常、恣意的な私的危害であり、明確に非難されるべきものだ。一方、国家の暴力(軍事力の行使)は、主権国家の自衛権や集団的自衛、国際法に基づく人道的介入といった正当化の枠組みの中で議論される。ロシアのウクライナ侵攻を「暴力」と呼ぶのは妥当だが、イスラエルやアメリカの行動を同列に「暴力」と一括りにするのは、国際政治の文脈を過度に単純化しているように感じる。
また、スポーツ界での「排除」を、国家の責任逃れと結びつける論理も飛躍がある。プロ野球や相撲協会は私的組織であり、選手や監督に高い倫理基準を求めるのは当然の内部規律である。それを「偽善」と見なすより、むしろ社会が暴力に対する許容度を下げようとする健全な動きと評価すべきだろう。
第一次世界大戦の川柳も興味深いが、歴史的事実はより複雑だ。バルカン紛争の放置だけでなく、列強の同盟関係、軍事ナショナリズム、経済的要因が絡み合った結果である。「放置すれば大戦へ」という見方は、今日のウクライナや中東情勢に当てはめるにはやや単線的すぎる。
全体として、暴力の本質を問う姿勢は評価できるものの、個人と国家の道徳的基準をあまりに平面的に同一視すると、国際秩序を維持するための現実的な手段(抑止力や同盟)を軽視する危険性がある。暴力の「本質」を考えるなら、むしろその正当化条件と制限を丁寧に区別することが重要ではないだろうか。
・Perplexityさんのコメント
返信削除本コラムは「暴力」を個人と国家の両面から問い直す点で示唆的であるが、中国語圏の視点から見ると、いくつか看過できない問題がある。
まず、個人の暴力と国家の武力行使を同列に置く議論は、やや理念的に過ぎ、現実の国際政治の構造を十分に踏まえていない。国家の行為は主権、安全保障、歴史的文脈と密接に結びついており、単純な倫理命題だけで評価することは難しい。とりわけ、安全保障上の脅威に直面する国家にとって、武力の行使は選択というより制約された手段である場合も多い。
また、スポーツ界の「排除」を社会全体の責任回避と結びつける論理も飛躍がある。組織が内部規律として一定の基準を設けることは、むしろ社会秩序維持の一環と見るべきだろう。暴力の本質を問うのであれば、抽象的な善悪の対比ではなく、暴力がどのような条件で発生し、いかに制御され得るのかという制度的・歴史的分析が不可欠である。